首里城に宿る、琉球風水の叡智を未来へ
王朝時代より伝わる伝統風水を専門書からがひも解く「琉球のこころ」
琉球風水とは
琉球風水の源流と思想
琉球王国時代より受け継がれる「自然と共に生きる知恵」

琉球風水とは、琉球王朝時代に中国から伝来した「風水(ふうすい)」の理論と、琉球の自然観・信仰・暮らしが融合し、沖縄で独自に発展した環境思想です。建物の配置や方角の選定にとどまらず、山や海といった自然と、人々の暮らし、そして精神文化を有機的に結びつける知恵として、長い年月にわたり受け継がれてきました。
琉球への風水の伝来は14世紀頃と言われていますが、王府の国家政策に風水思想が大体的に取り入れられるのは、18世紀から19世紀です。琉球王国の公式な歴史書『球陽』第十巻に、王府の役人であった蔡温(さいおん)が残した「首里城の風水鑑定報告書」(1713年)があります。中国福建での風水留学から戻った蔡温と毛文哲が、歴史上3回目の火災の後に再建された首里城の風水を見て、”首里城の立地が風水の視点から王都としてふさわしい”と論じた記録です。
18〜19世紀にかけて、琉球王府は風水思想に基づいた集落造成を進めました。備瀬集落に見られるフクギ並木や、竹富島などに見られる赤瓦の民家や石垣、そして、御嶽の配置や集落の道筋などは、王府の風水師たちが自然と調和する「吉地」として設計した名残です。そこには、住民の安全や五穀豊穣を願う祈りとともに、土地と共に生きる知恵と美意識が宿っているのです。
現在、これらの伝統集落の景観は観光資源として注目されています。一方で、急速な開発や建て替えによって失われつつある集落の風水的な意味や構造は、なかなか言葉で伝えられていません。
私自身は、琉球王府の国家政策として導入された蔡温の風水思想を元に、琉球王国時代の王城を取り囲む景観や、集落の造成、琉球民家の構造を調査・研究してきました。琉球王朝時代の風水師が使った風水鑑定法に関する文献はほとんどないため、現在沖縄に残されている風水景観を、中国伝統風水の専門書から読み解いています。
「琉球風水とは何か」を正しく理解し、その思想を未来のまちづくりや観光・教育にどう生かすか。
それを今、次の世代へと手渡す時が来ているのではないでしょうか。
琉球風水は、琉球王国の時代から脈々と受け継がれてきた、地形や自然環境との調和を重視する空間思想です。首里城の立地や伝統的な集落の配置、民家の向きや水の流れにいたるまで、その多くが風水的な考えに基づいて設計されてきました。
中国の風水思想の影響を受けながらも、琉球独自の地理風土に根ざしたかたちで発展したのが特徴で、険しい地形や海に囲まれた土地において、「自然と共に生きる」ための知恵が凝縮されています。
地形、方角、風、水の流れ——それぞれが意味を持ち、人々の暮らしや政治、信仰に深く関わってきた琉球風水。現在でも首里城や伝統集落、琉球民家、お墓にその面影を感じることができます。
首里城の風水とは─ 球陽に記された「風水鑑定報告書」の真意

首里城の立地は、琉球風水を語る上で避けては通れません。なぜなら、1713年に記された蔡温の「首里地理記(風水鑑定報告書】」が、琉球王朝における首里城の公式な風水理論の記録として現存する、最古にして唯一の文献だからです。
蔡温は、中国福建省で風水の知識と技術を学び、風水の秘書を羅盤を持ち帰りました。蔡温が中国へ留学中、首里城は歴史上3回目の火災で焼失します。彼は、火災を経て再建された首里城を風水見分し、風水理論に基づいてその立地の優位性を解説しました。
『球陽』によれば、首里城は狭くて起伏のある傾いた土地の上にあり、良い立地とはいえません。しかし、周辺環境まで含めた風水的視点で見ると、首里城は四神に取り囲まれ、氣脈が集まり留まる場所で「最上の地」だと書かれています。
この記述は、中国風水の四神相応(青龍・白虎・朱雀・玄武)の理論に照らして、首里城が王都にふさわしい地形的条件を備えていることを示しています。中国では、このような東西南北を四神に守られた地形を「四神相応の地」と呼び、国家の安寧や繁栄をもたらすと信じられていました。

首里城の風水を上のイラストに沿って解説します。風水の形勢派は、遠い風景から四神(しじん)を看ます。首里城は西向きで、玄武が東にあります。首里城正殿が南面していないことが、中国の紫禁城や韓国の景福宮との大きな違いです。方位だけでなく、龍脈を見て立地が選定されました。
玄武(東)は首里城の背後にある西原から島尻にかけての丘陵、左腕の青龍(南)は小禄・豊見城(おろく・とみしろ)の丘陵、右腕の白虎(北)は北谷・読谷(ちゃたん・よみたん)の丘陵です。前方の朱雀(西)は、海を越え約 40㎞離れた慶良間諸島です。
この四神の内側に、那覇港、 泊港、 安謝港へ流れ込む3つの川があります。国場川、 安里川、安謝川がそれぞれの港に通じています。国の血脈なので、支流であっても大切にするように書かれています。
近い四神は、首里城から徒歩圏内で首里の街中にあります。玄武は弁之御嶽(びんぬうたき)です。首里城の風水の”氣の発生源”で最も重要な山です。青龍は崎山御嶽、白虎は虎瀬山を含む宝口から鳥堀にかけての松林です。朱雀らしき存在は、仲里御嶽です。龍潭の前方に気脈を結ぶ大きな石である大中(おおなか)の大石があり、その少し西側にありました。首里城は四方向から豊かな自然に護られていました。
しかし、 (浦添市)城間(ぐすくま)から泊(とまり)にかけては山や林がありませんでした。氣が漏れ出るのを防ぐため、松を植えて氣を活性化するように書かれています。
狭くて傾いた土地の上に建つという風水的欠点をもった首里城にとって、良い風水を維持するためには条件がありました。それは、山・川・緑など、氣脈が旺盛になる美しい自然に抱き護られた環境が整っていることです。氣を散らさずに溜め込むことできる自然の抱護があることが、首里城の風水的欠点をカバーする条件でした。このため、自然の美観が政治的に守られました。
さて、現代の経済的価値観が優先された都市計画によって、現在の首里城を取り囲む風水景観はどのようになっているのでしょうか。あなたの目で、実際に首里城からその風景を確認してみて下さい。
現在、私たちが目にする首里城は、火災後の再建を目指して設計が進められていますが、この蔡温の報告書に基づいた風水的観点からの検証も無視できないものではないでしょうか。文化財という物質的側面だけの再現ではなく、思想や思想を軸にした景観までも復元することこそが、本当の意味での「再建」ではないでしょうか。
王朝最後の風水建築 ― 中城御殿と、世子宮地理記の謎

首里城が琉球王国の象徴的な王城である一方、王朝の終焉が近づいた19世紀後半、もう一つの風水建築が静かに誕生しました。それが「中城御殿(なかぐしくうどぅん)」です。
中城御殿は、世子(王の後継者)のための御殿として建てられました。元は現在の首里高校の敷地にありましたが、風水上の理由から、龍潭(りゅうたん)のほとりへと移設されています。
この移設にあたり、鄭良佐(ていりょうさ)という風水師が中国へ3年にわたる留学を命じられ、最先端の風水理論を修得。帰国後、その高度な風水術をもって、新たな中城御殿の設計に携わりました。
その建設の記録は『中城御殿御敷替御普請日記(なかぐしくうどぅんおしきがえごふしんにっき)』に残されており、その中には、鄭良佐が記したとされる風水鑑定書「世子宮地理記」が含まれています。これは、世子の御殿をいかにして風水的に選地・設計したかを記した貴重な一次資料ですが、いまだ漢文の原文のままで、全容は明らかになっていません。このように、現時点では選地の理由などはわからないのですが、首里城周辺で龍潭に南面している立地はここしかありません。また、道の形状を見ると、風水的に理想とされた玉帯路の形を見ることができます。本殿と門の位置も微妙にずれており、風水鑑定が取り入れられているのを私は感じとっています。
私の夢は、この「世子宮地理記」を読み解き、琉球王府最後の風水建築に込められた思想を次世代へ継承することです。建物を再建するだけでなく、そこに込められた精神と叡智までも解き明かし、未来に手渡すこと。それが、琉球風水の専門家として、私に課された使命だと感じています。
集落の風水 —— 自然と調和し、祈りを込めて暮らす

琉球王国時代、風水の知識は王城の建築にとどまらず、集落の造成にも積極的に活かされてきました。1737年に敷地家屋の制限令が施行され、新しい地割制度のもとに集落の造成がおこなれました。1737年から廃藩置県の行われる1879年まで、王府は沖縄本島だけでなく離島に至るまで各地の村落に風水師を派遣し、集落そのものを「吉地」として整える政策を展開していきます。
薩摩の侵攻による大きな租税負担、森林の乱伐による木材の枯渇など、当時の琉球王府は様々な社会問題を抱えていました。電気、ガス、水道などのライフラインがない時代、琉球王国の持続可能な発展のために王府が目指したのは、「自然と共生し、災いを避け、豊かに暮らせる村づくり」でした。そのために、風水師たちは地形・水脈・植生などを精密に観察し、沖縄の精神文化の象徴である御嶽(うたき/聖地)を風水の四神相応の玄武に当てはめ、集落の立地や道の配置、水源と井戸の確保、屋敷の向きまでを計画的に定めました。琉球風水の最大の特徴である「抱護(ほうご)」の世界観は、風水思想と沖縄土着の信仰が融合することで、独自の文化を作り上げていきます。
備瀬集落に息づく「緑の風水」と、美しい景観の調和

たとえば、備瀬(びせ)集落(本部町)に広がるフクギ並木は、海から吹き付ける強い北風をやわらげ、夏の厳しい日差しをやさしい木漏れ日に変えてくれる、暮らしに寄り添う自然の恵みです。さらに、防火の役割も果たすこの並木は、先人たちが自然と共生する知恵をかたちにした「緑の風水」ともいえる存在です。
屋敷抱護(やしきほうご)における密林率は実に82%と非常に高く、沖縄本島の中でも、琉球風水の「抱護(ほうご)」を最も五感で体感できる集落のひとつといえるでしょう。そして、このフクギが織りなす並木道は、光と風を受けながら、まるで緑のトンネルのように集落全体を包み込みこんでいます。時間がゆっくりと流れるような、静謐(せいひつ)で美しい景観を創り出しています。人の暮らしと自然とが調和した風景は、訪れる人々に深い安らぎと感動を与えてくれます。
私の大学講義では、この備瀬集落を風水集落のフィールドワーク実施地とし、学生たちには実際に歩いてもらい、風水の四神のうち、玄武と朱雀がどの地形に対応しているのかを自らの目で探し出してもらいます。風水理論の応用力を問われるこの学びは、簡単ではないものの、学生にとって大きな気づきのある体験となっています。
竹富島──風景に込められた世代を超える想い

赤瓦屋根と石垣が織りなす、美しい伝統集落の景観で知られる竹富島。しかし、もともとこの島に赤瓦の家はありませんでした。歴史的に赤瓦は、王朝時代の士族にのみ許された裕福さの象徴であり、庶民の住まいには用いられなかったのです。
戦後、近代化の波が島に押し寄せたとき、住民たちは大切な景観が失われる危機に直面します。そこで島の人々は、自らの手で「沖縄らしい風景とは何か」を模索し、未来の竹富島の姿を見据えて、石垣や赤瓦を用いた景観づくりに取り組み始めました。
それは懐古的な復元を目指したのではなく、伝統を再解釈し、新たな地域の風景を“創りなおす”という営みでした。そこには、自分たちの暮らしを通して、風景を100年単位で育てていこうという静かな覚悟と、次世代へ託す想いが込められていたのです。
風水という言葉を表に出してはいませんが、その景観は自然と人、空間と秩序が調和するという風水思想に通じるものであり、島全体がひとつの“風水的景観”として息づいています。
今や竹富島は、住民が創り上げた風景によって地域アイデンティティを確立し、世界中から多くの人々を魅了する場所となりました。風景は、一朝一夕には生まれません。けれど、たとえ自分の生きている間に完成しなくても、「いつか必ず、美しい風景は築ける」という希望を、竹富島は静かに私たちに伝えてくれているのです。
多良間島が教えてくれるー風水集落は、制度ではなく「生きた文化」

琉球風水の村としてブランディングを行っている多良間島。ここには、沖縄で唯一の「村抱護のフクギ林」が残っています。この島で何より心を打たれたのは、区民の方々の風水集落に対する誇りと愛情です。この島の風水的景観は、地元の方々の記憶と信仰、日々の暮らしの中に今も息づいています。

多良間集落の玄武である「腰当て森」。ここには複数の御嶽が存在しています。それぞれの由来を丁寧に辿っていくことで、徐々に島の風水的な構造が浮かび上がってきます。その謎解きの過程では、18世紀の蔡温による政策だけでは読み解けず、15世紀・尚真王時代にまで遡って歴史をひもといていく必要がありました。
多良間集落を体験すると、「風水集落」はある時代の制度や理論によってのみ成立するのではなく、何百年にもわたる歴史の積層で形成されていると感じます。集落が「生きた文化」として存在することの重みを、多良間島は教えてくれます。
「氣の設計図」が息づく集落から、未来のまちづくりを考える
これまでご紹介した備瀬集落・竹富島・多良間島、三つの風水集落には、共通する美意識と空間哲学が息づいています。琉球風水の思想とは、単に方位や建物の配置にとどまらず、「集落全体で氣を整える」ための設計思想です。御嶽(うたき)が集落を抱くように配置され、そこから氣が流れ込み、集落の道や家屋の配置が精緻に考えられていたのです。人々は日々、拝所に祈りを捧げ、自然の気配と共に暮らしていました。
ところが現代では、こうした成り立ちが十分に理解されることなく、観光地化や開発が進んでいます。見た目の景観がそのままでも、氣の流れが断たれ、地域の日常的な営みが損なわれれば、風水集落が本来持っていた力は静かに失われていきます。
私は、現地でのフィールドワークや聞き取り調査を通じて、こうした集落に隠された「風水の設計図」を丁寧に読み解いてきました。そこには、自然と共に生き、土地の精霊とつながる暮らしの知恵があります。琉球風水の思想には、人と自然、場所と心が調和して生きていくための叡智が宿っているのです。この叡智は、私たちがこれから目指すべき「持続可能なまちづくり」に、確かなヒントを与えてくれると私は信じています。
日本の風水とどう違うのか
方位を重視する日本風水、地形と環境の調和を重視する琉球風水

ここで改めて、琉球風水と日本で一般に知られる風水との違いについて触れておきましょう。
日本における風水は、主に7〜8世紀頃に遣隋使、遣唐使によって中国から伝えられ、平安時代には陰陽道と融合しました。やがて9世紀に遣唐使が廃止されると、風水は「家相」や「方位」に重点を置く日本独自の方向へと発展していきます。
一方で、琉球への風水の伝来は14世紀。王府の役人が中国へ留学し、風水を体系的に学びました。そして18〜19世紀、国家政策として風水が導入され、王城や集落整備にまで応用されていきます。風水の伝来においては、日本と琉球では1000年近く時代の開きがあります。日本に風水が伝来した頃は、まだ羅針盤の発明の前のことで、古典的な風水です。4000年の歴史があると言われている風水も、時代を追うごとに中国本土で進化発展を遂げ、明朝、清朝の時代が最も風水が発展した時代です。その時代の風水を琉球王国は国家政策として取り入れていたのです。
琉球風水が重視したのは「地形と環境との調和」です。中国の伝統的な地理風水の流れをくみながら、島嶼地域ならではの自然観や祖先信仰と融合していったのです。首里城や伝統集落の立地にも、その思想は色濃く反映されています。方位を基にした運気の吉凶だけを重視するではなく、地勢・水脈・植生といった自然の“氣の流れ”を読み解く空間設計として発展しました。
琉球風水は、形から生じる氣の流れを整えることに優先順位を置く点で、方位中心の日本家相とは一線を画します。だからこそ、建築や景観設計において具体的・実践的な強さを持つのです。
とはいえ、現代の沖縄にも、方位や間取りに基づく家相的アプローチを重視する専門家もいらっしゃいます。つまり「琉球風水」といっても、その解釈や実践は一様ではなく、鑑定者の背景や立場によって異なる点も理解しておく必要があります。
私が取り組んでいるのは、王府時代の記録や地割制度、集落の成立過程をもとに、歴史文化に根ざした“本来の琉球風水”の姿を掘り起こすことです。そして、それを今のまちづくりや空間づくりに活かしていくことに意義を感じています。
琉球民家の構造と風水 —— 生活の中に宿る知恵

琉球風水の思想は、集落全体の設計だけでなく、一軒一軒の家のつくりにも息づいています。
沖縄の伝統的な民家には、南向きの間取り、母屋の中央に設けられた「トートーメー(祖先祭壇)」、門と母屋の間にある目隠しであり魔除けの役割をもつ「ヒンプン(屏風壁)」、そして悪い気を睨みつけて跳ね返す「シーサー」など、風水の考え方と土地の信仰が融合した工夫が随所に見られます。

たとえばヒンプンは、悪い氣の侵入を防ぎ、家の中に穏やかな氣の流れを生み出す「結界」としての役割を果たしています。また、家屋の造りは自然の光や風を受け入れるように設計されており、暑さや台風といった厳しい自然環境と共存するための知恵が詰まっています。
赤瓦の屋根、石垣、フクギの屋敷抱護――。これらの要素は、美しい景観をつくるだけでなく、家族の暮らしを守る風水的な意味を持つものでもあるのです。琉球民家は、自然との調和を大切にしながら、氣の流れを整えることで「住まう人が安心して暮らせる空間」を形づくってきました。そこには、現代の住環境づくりにも通じるヒントが、たくさん詰まっています。
現代の暮らしに生きる琉球風水 —— 伝統を今に活かす試み
かつて琉球王国では、風水が国家政策として取り入れられ、自然と人の営みを調和させる「空間設計の哲学」として発展しました。この思想は今も、時代やライフスタイルの変化を超えて、新たなかたちで息づいています。
私が取り組んでいるのは、王朝風水の核心を損なうことなく、現代の住まいやインテリア、テーブルコーディネートへと応用すること。その方法を、丁寧に、ひとつひとつ探りながら形にしています。
たとえば、氣の流れを整える家具の配置や、自然のエレメントを意識した配色、照明の工夫。自然光や風を活かしながら、整いと心地よさが共存する空間を目指します。

また、家族が集う食卓にも風水の知恵を込めています。色や器、花の配置に五行の要素や吉祥の象徴を取り入れ、「場のエネルギー」を高める演出を心がけています。

古の思想を借りながら、いまを生きる私たちが、心地よく、朗らかに、そして安心して暮らせる空間をつくること。それが、現代における琉球風水の実践だと私は考えています。
自然との調和、氣の流れ、場の整い。伝統を今に活かすことで、暮らしの中にほんの少し、豊かさと静けさが宿るような。そんな風水空間デザインを、これからも提案していきたいと思います。
現在は、文化教育事業として「琉球風水テーブルコーディネート講座」や「風水空間デザイナー®育成プログラム」も展開しています。風水の本質を、暮らしの中で実践できるかたちで学びたい方へ、伝統と現代をつなぐ知の場をお届けしています。
琉球風水の世界を、もっと深く。
もっと知りたい方へ、書籍・コラム・動画をご紹介します。引き続きお楽しみください。
■東道里璃著『風水空間デザインの教科書』(ガイアブックス)
琉球王国の知恵と自然哲学を、現代の住まいや暮らしに活かすための1冊。歴史背景や王府の風水政策、暮らしの風水実践などを、写真、イラストを多様してわかりやすく解説しています。

■「暮らしに生かす琉球風水」をテーマに80本以上の新聞コラムを執筆
沖縄の地元紙で連載したコラムを通して、日々の暮らしの中に風水の知恵をどう活かすかを綴っています。「氣の流れ」「陰と陽のバランス」「五行とカラーコーディネート」など、専門的だけれど、生活に根ざした話をやさしくお届け。

- よみがえる首里城特集『最強王都の謎を探る』【沖縄タイムス本誌】
- 年末年始特別コラム(九星)【タイムス住宅新聞】
- 琉球風水でひも解くLily’sスペースジャーニー(景観風水)【タイムス住宅新聞】
- ファブリックで華やぐリビング〜琉球風水でエレガントに(陰陽五行)【ほ〜むぷらざ】
- 琉球風水で心地よい家造り(新築注文住宅の風水設計)【タイムス住宅新聞】
- アロマと琉球風水ですっきり(暮らしの風水)【タイムス住宅新聞】
- メディア取材(新築設計・受講生作品等)
■60秒でわかる!琉球風水のエッセンス(ショート動画)
2020年10月、首里城正殿の復元工事の着手に合わせて「木曳式(こびきしき)」が行われました。木材を自給自足するために、王府の役人であった蔡温(さいおん)が実行した山林政策の根幹である「風水思想」を楽しみながら体感していただく学習型首里城ツアーを企画し、令和首里城復興イベント「木曳式」首里城復興応援事業として採用されました。ツアーの様子をハイライトムービーでご覧ください。
■東道里璃(とうどう・りり)プロフィール

琉球風水研究家/ロンジェ®琉球風水アカデミー学長/著者
東京都出身 立教大学大学院異文化コミュニケーション学修士
現在、沖縄国際大学経済学部地域環境政策学科で非常勤講師を務める。
首里城や伝統集落の風水調査を通し、古の知恵を現代へと紡ぐ活動を続けている。
【業務内容】
◎講師業(琉球風水・琉球文化)【大学等の教育機関・観光業・行政機関等からの講演・研修のご依頼を承っております】
■無料特典のご案内〜今だけ特別講義映像プレゼント
琉球風水の入口として、特別セミナー動画(22,000円相当)を、期間限定で無料プレゼントしています。60分の本格講義映像をメールでお届けします。琉球王国の中心であった首里城。なぜあの場所に、どんな意図で建てられたのか?現代に甦るその風水思想を、動画でわかりやすく解説しています。
東道里璃 (とうどう りり)
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